南越鉱山とは何だったのか?越後 黒又沢・檜倉沢~台嵓沢に眠る坑口と鉄橋の謎【現地調査編】

目次

黒又沢の「謎の滝」と鉄橋

十字峡から中ノ岳へ登り始めると、左手の山腹から大量の水が噴き出しているのが見える。黒又沢本流を遡れば、両岸が切り立ったゴルジュの上に鉄橋が一本架かっており、こちらもすぐ横から大量の水が噴き出している。沢ヤや釣り師の間では「あれは鉱山の跡らしい」と度々話題になるが、どんな鉱山で、なぜこんな谷の奥にあったのかを知る人は少ない。

これらは、昭和30〜40年代に地下で稼働していた東邦亜鉛・南越(なんえつ)鉱山の遺構だ。1966年刊行の東邦亜鉛の社史には、この鉄橋を写した写真が「第一通洞と第二通洞を結ぶ鉄橋」という説明付きで載っている。

私がこの鉱山遺構を初めて見たのは2023年の右滝上沢遡行の時だった。令和のご時世においても未踏を色濃く残してきた黒又沢流域において、立派な人工物や随所から噴き出す不自然な湧水滝は、どれもアンバランスで異様な光景として印象に残った。

その後、南越鉱山の概要については簡単に調べた。豪雪地にある急峻な高所での開発を可能にするため東邦亜鉛が選んだのは、地上に道を作らず、山の腹にトンネルを掘って鉱床の真下に入る方法だった。社史はこれを「もぐら戦術」と呼んでいる。実際に、越後三山只見集成図には広堀川マゴタイ沢付近から阿寺山を貫き黒又沢へと至る通洞が閉鎖済みとして表記されている。
しかし、黒又沢やその奥の檜倉沢・台嵓沢を歩く中で遭遇した、坑口、レール、トロッコ、そして赤く染まった滝といった数々の遺構は、大まかな概要だけでは説明がつかないものばかりだった。

この記事は二部作の前編、現地調査編だ。2023年、24年、26年にかけて沢を登り、現地に残る発見可能な遺構を徹底的に観察・記録した。今回はその内容を余すことなく整理していく。それぞれが何だったのかは、後編の机上調査編で資料と突き合わせ、より南越鉱山の輪郭を鮮明にしていく。

越後屈指の悪渓がひしめく黒又沢流域の、しかも山の腹の中に、なぜ鉱山があったのか。こんなにも険しい場所で、どうやって鉱山開発を進めたのか。社史・論文・国会会議録・自治体の白書など当時の一次資料を読み漁り、沢ヤの目線で南越鉱山の一生を辿ってみたい。

注意 坑道は酸欠・落盤・有毒ガス・出水の危険があり、立ち入りは勧めない。特に、現地で立入禁止表記がある場合は遵守すること。また、南越鉱山は立地の性格上探索には高度な沢登りの装備と技術を要する。そのため本稿では正確な位置(座標)や到達ルートは書かない。坑内の写真も記録として載せるもので、立ち入りを勧めるものではない。また、鉱山跡の岩石には砒素などを含む可能性があるため、採取や持ち帰りは避けてほしい。

南越鉱山の基本データ

南越鉱山は、越後三山の中ノ岳・八海山・阿寺山に囲まれた山中にあった鉛・亜鉛・銅の鉱山だ。本格的に動いたのは1950年代後半から1971年までの十数年間である。

概要

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項目内容
所在地新潟県南魚沼郡六日町大字山口字広堀(現・南魚沼市)[1]
経営日満鉱業 → 東邦亜鉛(南越鉱業所)[2][3]
主な鉱石閃亜鉛鉱・方鉛鉱・黄銅鉱 ほか[4]
埋蔵量と品位(1968年度現在)埋蔵量180万t。品位は鉛3.7%・亜鉛7.1%・銅0.7%・銀120g/t[1]
露頭の分布黒又沢とその枝沢、標高450〜1,700m[4]
主な鉱床大倉・御神楽・もちば・日向・あらやま ほか[4]
従業員約450人(1960年代後半)[5]

主な出来事

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年できごと
1809年会津藩の地誌に、この付近の「黒俣山」で天正年間に金・銀・鉛を掘ったという伝えが載る[6]
1950年日満鉱業㈱が若井朝則から鉱区を買収[3]
1955年東邦亜鉛の社長が現地を視察し、日満鉱業から買収[1][2]
1956年5月通洞(運搬用トンネル)の工事が始まる[2][7]
1957年12月湧水がひどく、建設会社が工事を辞退[2]
1961年5月第一通洞(約3.8km)が貫通。続いて黒又沢に鉄橋[1][2]
1963年7月選鉱場が完成し、操業が始まる[1][2]
1963年暮れ第二通洞の掘進中に日向鉱床を発見[2]
1965年粗鉱で月5,000tの生産に入る[3][4]
1970年12月周辺のカドミウム問題が国会で取り上げられる[8][9]
1971年3月操業を止めて休山。施設も同じ年度のうちに閉鎖[10][11][12]
1973年5月越後三山只見国定公園に指定[13]
1976年坑道を閉鎖[11]

南越鉱山はいつ止まったのか?

これは基本概要リサーチの中で一番手こずった。資料によって「休止」「休廃止鉱山」「閉山」と言い方が分かれ、年もはっきりしなかったのだ。
複数系統の資料を突き合わせて、ようやく答えが出た。1971年3月である。
南越鉱山は1971年3月に操業を止めて休山し、施設も同じ年度のうちに閉じられた[10][11][12]。坑道が閉鎖されたのは1976年である[11]。越後の登山家・藤島玄も、1971年3月末に操業を中止し、5月末に施設を閉鎖したと書いている[12]。

呼び方には揺れがある。新潟県の資料は一貫して「休山」と書き、1974年の国会でも東邦亜鉛の社長は「休止」中と答えている[11][14]。一方、若井(1971)は「閉山」と書いていて[15]、一般には閉山と呼ばれることも多い。本稿では行政資料に合わせて「休山」と書く。

概要は分かった。では、この鉱山は沢にどんな痕跡を残しているのだろうか?

現地の痕跡をたどる

まずは、すべての始まりの鉄橋だ。鉄橋は、黒又沢の両岸の岩壁に開いた2つの坑口を結んでいた。つまり、トンネルから出て谷を渡り、またすぐトンネルに入る橋である。
坑口の標高はどちらも540m前後(以降、標高は確認した地点を国土地理院の数値標高モデルで読み取った値を使用)。どちらの坑口も断面が大きく、トロッコ列車が十分に稼働できそうな構造だ。両岸とも厳重に封鎖されていて、内部は確認できない。鉄橋の上には、今もレールが残っている。

不思議なのは水だ。鉄橋につながる坑口からは、水が出ていない。ところが、左岸側の坑口のすぐ横・少し下にもう一つ小さな坑口があり、そこから大量の水が流れ出ていた。入口は鉄骨と鉄板で補強され、入るならかなりかがむ必要がある高さだ。これは、第二通洞の湧水を黒又沢へ出す排水坑としてつくられたものかもしれない。第一通洞は広堀川側の坑口へ向かって下っているはずなので、その湧水は広堀川へ流れたと考えられる。

確認できた遺構(黒又沢本流・鉄橋周辺)

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No遺構標高現地での確認結果と解釈
1試掘坑461m黒又沢本流左岸。奥行約1m、坑口は埋まっていて進入できない。古い時代の試掘か?
2試掘坑503m黒又沢本流左岸。奥行約10mで行き止まり。保存状態良好。
3坑道からの湧水508m黒又沢本流左岸。上記試掘坑のすぐ上。坑口は土嚢で封鎖され、奥から大量の水が流れ出ている。坑口と同じ高さで、黒又沢に沿って道の跡のような平地が続く。
4坑道からの湧水530m黒又沢本流右岸。御神楽沢(集成図[16]ではマガブチ沢)の近く。急斜面のため坑口は未確認、水量は多い。十字峡~中ノ岳への登山道から見える。
5坑道からの湧水537m黒又沢本流左岸。第二通洞側の坑口のすぐ隣で、坑口は狭く入るにはかなりかがむ高さ。鉄骨と鉄板で補強され、大量の水が出ている。
6鉄橋の口540m黒又沢本流左岸。第二通洞側の坑口。コンクリートで厳重に封鎖されている。坑口は大断面、水は出ていない。鉄橋の上にレールが残る。日向山の地下へと延びる第二通洞側の坑口か。
7鉄橋の口540m黒又沢本流右岸。第一通洞側の坑口。急斜面のため坑口は直接見ていないが、封鎖は視認。坑口は大断面、水は出ていない。鉄橋の上にレールが残る。広堀川側から来る第一通洞の黒又坑口か。
①の試掘坑
②試掘坑と③湧水滝
②試掘坑の内部
③湧水滝を登ってみたら、坑口は埋められていた
③坑口と同じくらいの高さでトラバース道の痕跡あり
④湧水滝。中ノ岳への登山道で見える滝はこれ
⑤湧水滝の坑口。鉄橋脇にある大水量滝の出所だ
⑤湧水滝を撮影する筆者
⑥鉄橋の左岸側坑口の封鎖状況
⑦右岸側を見る。鉄橋にはレールが残る

鉄橋周辺だけで、坑口と試掘坑が複数。水を吐く坑口もあれば、乾いた坑口もある。これらの湧水のおかげで、黒又沢本流の水は冷たく澄んでいる。ちなみに湧水滝は非常にヌメって登りにくい。
この湧水はどこから来たのだろうか。水が抜けた事によって、涸れた沢はあったのだろうか。
確証は全くないが、御神楽沢など黒又沢右岸支流の沢は、集水域のわりに水量が少ない気がしている。

河原に落ちていたもの(黒又沢本流・檜倉沢出合付近)

索道用と思しきワイヤー(黒又沢本流にて)
レールと思しきパーツ(檜倉沢出合付近)

沢の中にも、時々人工物が転がっている。見つかった場所は、黒又沢本流と檜倉沢、台嵓沢に集中していた。歩いた限りでは、右滝上沢、左滝上沢、五龍沢、台所滝沢では鉱山と関係しそうな人工物は落ちていなかった。

涸れていた沢と、見つからなかった橋

2024年9月、栃ノ木沢コブシ沢から尾根を乗っ越して檜倉沢上部に入った。この山行の寄り道として、檜倉沢と台嵓沢の二俣付近にあったとされるトロッコ軌道跡の状況を探ってやろうと企んでいた。古い記録では、持場沢付近から鉱山用の経路を辿り二俣まで到達し、二俣以降の檜倉沢(本流区間は未遡行)を遡行した旨が載っている。遡行図には、檜倉沢を横断する軌道跡が書かれていた[17]。
正直、半信半疑だった。ここは越後三山でもトップクラスに地形が険しい場所だ。どうやって工事したのか見当もつかないし、橋なんて作っても雪崩で数年も耐えられないだろう。果たして、痕跡はあるのか?

檜倉沢に入り、目を疑った。水が全然無かった。
谷の規模と切り立った側壁に不釣り合いなほどに、殆ど水が涸れていた。これは想定外だった。二俣へ向かって下っていくと、極めて弱々しい湧水があり何とかその日の幕営は事足りた。
クライムダウンが厳しい滝が出てくるまで二俣付近への探索を続けたが、軌道跡の手がかりや坑道のようなものは見つけられなかった。

厳峻なV字谷が続くが、水は殆ど無く谷底は乾いている
奥に見えるひときわ切り立った側壁が檜倉沢本流の右岸側壁だ

不自然な2本の滝

2026年10月、荒山沢左滝上沢~五龍沢を周回した。五龍沢への下降を開始する際、谷の対岸に檜倉沢方面が良く見えるのだが、そこで奇妙なものを発見した。台嵓沢左岸側壁にかかる2本の湧水滝である。場所は殆どジャスト二俣で、檜倉沢・台嵓沢の中間尾根にあたる。
確証はまだ無いが、坑道口ではないだろうか?あそこから出ている水は、今は涸れている檜倉沢を流れるはずだったものなのだろうか?
期待に胸を膨らませ、翌週の調査対象に回した。

五龍沢源頭付近から檜倉沢方面を望む
拡大すると、明らかに不自然な滝があった。右上に写るガレが檜倉沢

檜倉沢の二俣「日向嵓」に眠る坑口

2026年10月、檜倉沢~台嵓沢を遡行した。越後屈指の悪渓とされ、2024年まで本流ゴルジュが未踏であり続けた越後三山最後の砦だ。
遡行内容自体は最高に面白いものだったので別記事に纏める。

2024年の山行時には最後まで接近できなかった二俣が目の前に広がり、感無量だ。ちなみにこの二俣の岩稜帯は日向嵓とも呼ばれている。前の週に目星をつけた湧水滝の真下まで来た。高度感のある登りで湧水滝がかかる側壁を登り、少し傾斜が緩むとイタドリの藪が生え始める。すると、様々な残骸が目立つようになってきた。
特に気になったのが、傘の柄のように曲がった金属パーツだ。これは、足尾銅山の遺構、根利山の探索の際に見かけた索道用のパーツによく似ていた。黒又沢の本流に落ちていた鉄のワイヤーがフラッシュバックする。
もしかして、索道で資材や鉱石の運搬を行っていたのでは?
索道であれば、軌道よりも地上設備は簡素なものになる。路盤の痕跡が無い事にも説明が付く。

檜倉沢・台嵓沢の二俣に立つ
奥側が台嵓沢、右側が前項で述べた湧水滝(落ち口までは写っていない)
索道と荷台の接続部にも見えるパーツ
レール、パイプ、ボルト類が沢山転がっている

イタドリの藪の中には、金属製のパーツだけでなく塩ビ管も落ちていた。少し進むと急に視界が開け、見上げると2本の湧水滝がすぐ上に見えた。足元には不自然に整った赤茶けた石が堆積してる。

「……あった。」
ニタリと笑みがこぼれる。
そこは、紛れもなくズリ場だった。

ズリ場と2つの湧水滝(坑口)
左側に台嵓滝を望むロケーションとズリ場で幕営(空撮)

ズリ場がある以上、2つの湧水滝は坑口で確定だろう。翌朝、滝を登り坑口を見に行く。
予想通り、2つの坑口が15m程の距離で開いていた。やはり、穴はあった。付近には、レールや運搬用の金属部品がよく残っている。坑口の前には、ほぼ同じ高さで作業道のような平場が続く。檜倉沢を渡る橋の跡も探したが、橋台や軌道の路盤と思しき跡は見つけられなかった。

さて、坑内はどこまで覗けるだろうか?付近に立入禁止の表記は無いが、簡易的とは言え封鎖されておりまぁ「入るな」の意思表示だろう。南越鉱山は実質廃坑に見えるが、一応休山の扱いなので配慮しながら探索を進める。入口付近には、詰所と思われる跡が見えた。観察可能な範囲を見ると、坑内には、レールや分岐器、その他設備類が良好に残り、分岐も多い。一部、支保工で補強されている箇所があった。下へ向かう竪穴も、いくつか口を開けているように見えた。

再三言うが、ここは越後三山屈指の険しい渓谷内だ。こんな所で、何でわざわざ…。よく開発進めたなぁとしか言えなかった。どうにかして資材を運び、掘り出したズリを捨て、取れた鉱石を運搬していたのだろう。

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No遺構標高現地での確認結果と解釈
8ズリの堆積904m広い台地状。坑口から捨てたズリと考えられる。2つの坑口から約84m下。
9坑道入口989m現地では坑内と坑口付近にレールや運搬用の金属部品が良好に残り、坑口付近に詰所と思われる跡、坑内には下へ向かう竪穴らしきものがある(上へ通じる穴は未確認)。坑口から湧水が外へ流れ出る。地表から人と資材を入れる拠点の坑口か?竪穴は下の段へ鉱石を落とす坑井か、下部から資材を引き上げるものだった可能性がある。
10坑道入口989m同上(9の約15m東)
11謎の平場989m10の約20m東。坑口前の作業場・資材置き場か。登山記録が描く檜倉沢の橋・トロッコ軌道[17]が通っていた地点の可能性がある。
12試掘坑1,045m奥行約2m。台嵓滝の高巻き中に発見。
⑨⑩こんな感じの坑口が2つ
坑口からズリ場方面を見る
坑口外に散らばるワイヤー、車輪、ボルトと木材、パイプ等
坑内は結構広いようだ

坑道付近の探索を終え、台嵓沢へ向かう。台嵓滝を左岸から高巻いていくが、坑道がある標高に沿って少しの間水平な区間が続く。かつて径路があったのだろうか?途中、藪を掴んで強引に上がる箇所もあるが、地形の弱点を突いて登り、進んでいくと試掘坑を発見した。
地形が、勝手にこの試掘坑へ導いてくれた。
それが意味するのは、今通ったルートが「人が歩くならここしかない」場所だったということだ。
巻き終えて台嵓滝の落ち口から振り返ると、坑口とズリ場が切り立った崖にあるのがよく分かった。

⑫高巻き中に見つけた試掘坑
台嵓滝の落ち口から坑道の滝を見る。普通に壁である

台嵓沢の坑口と赤い滝

台嵓沢を登っていくと、また坑口があった。
坑口の真下は高さ10mほどの滝で、坑口からの湧水滝が合わさりまるで2条の滝のようになっている。そして、湧水滝の方が顕著に赤茶けている。坑口から落ちる水に、酸化鉄が混じっているのだ。

坑内には、レールとトロッコが残っていた。ただ、ここは989mの坑口とかなり様子が違う。坑内には錆色のヘドロが溜まり、鉄分が明らかに多い。坑口の外にズリの山はなく、滝の下流の沢床にも、ズリらしい石は見当たらず普通の河原に見える。探索可能だった範囲で言うと、竪穴も見当たらなかった。

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No遺構標高現地での確認結果と解釈
13坑道入口1,250m現地では坑内にレールとトロッコが残り、錆色のヘドロが堆積している。⑨⑩に比べて鉄分が多く、坑口から落ちる滝は酸化鉄で赤茶けている。真下に約10mの滝があり、坑口付近は足場が悪い。坑内に竪穴は確認できず、滝下の沢床に坑内ズリらしき石は見当たらないが流出している可能性あり。登山大系の図には、檜倉沢を渡る橋からこの坑口方面へ向かう径路が描かれている。
14試掘坑1,707mコウガイ沢上部。奥行約7m、入口は崩落で8割ほど埋まっている。付近に銀色の鉱物を多く含む岩盤がある
この2条滝の右は坑道由来の湧水だ
⑬滝のすぐ上にある坑口
滝を巻いて⑬坑口へ接近中の様子
⑬坑口外より下流側を見る
小さなトロッコ。これなら人力でも動かせそう
坑内は結構広く、分岐も多い
ヘドロが堆積している
鉄分を含まない湧水もある
おどろおどろしいメタリックな岩盤
破砕帯に当たって、掘るのを止めたのだろうか

989mの坑口と1,250mの坑口は、どちらも坑道が長い。しかし、1,250mには竪穴が確認できなかったため、2つの坑道が地下でつながっていた可能性は低いと考えている。
だとすると、標高差260mの2つの坑口の間を、人は地表を歩いて行き来したことになる。1,250mの坑口付近はかなり足場が悪いが、よく見ると水平に作業道が続いていたように見えなくもない。山師や作業員が歩いて移動することはできたかもしれない。しかし、鉱石の運搬なんてできたのだろうか?少なくとも、軌道を敷けるような地形には見えなかったが…。

台嵓沢の渓相
その日の幕営地

台嵓沢を詰め終えて、中ノ岳に至った後、栃ノ木沢コウガイ沢を下降した。コウガイ沢の上部、標高1,707m付近でも痕跡を見つけた。奥行7mほどの試掘跡らしきもので、ライトで照らすと行き止まりになっていた。入口は崩れて8割ほど埋まっている。まわりには、キラキラ光る銀色の鉱物を多く含む岩盤があった。
銀色の鉱物は、硫砒鉄鉱・磁硫鉄鉱などの可能性があるが、見た目だけでは特定できなかった。有識者の意見求む。

⑭試掘坑と考えられる穴
⑭周辺で見られる銀色の綺麗な鉱物

沢から持ち帰った謎

ここまでを振り返ると、沢で見つけたものは謎だらけだ。黒又沢の500m台から、1,700mの稜線近くまで、痕跡は谷の底から山の上まで散らばっていた。

  • 鉄橋の日向山方面へ向かう坑道は、山の中でどこへつながっているのか
  • 鉄橋の坑口は乾いているのに、なぜ隣の小さな坑口だけが水を吐くのか
  • 湧水滝の発生により、涸れた沢はあったのか
  • 989mと1,250mの坑道は、何を狙って掘られたのか
  • 2つの坑口の間を、人と資材はどうやって登ったのか
  • 檜倉沢に橋はあったのか。ワイヤーと金具は何なのか

南越鉱山は、ざっくりと概要だけは知っていた。それでも、沢で見た一つひとつが何だったのかは、概要だけでは分からない。
散らばった点と点を繋ぐため、新しい答えを探して、今度は資料の山に潜った。

後編の机上調査編では、社史や論文、国会の会議録、古い登山記録をめくりながら、この謎を一つずつ解いていく。沢で測った数字と、資料に残された数字が、つながる瞬間がきっとある。

参考

  1. 南魚沼郡誌編集委員会.『南魚沼郡誌 続編 上巻』.新潟県南魚沼郡町村会,1971
  2. 東邦亜鉛株式会社 編.『荒野を拓く:東邦亜鉛』.日本工業新聞社,1966
  3. 茅原一也・小松正幸.『八海山地域の地質』(地域地質研究報告 5万分の1地質図幅).地質調査所,1992(PDF)
  4. 佐々木伝一.“南越鉱山の地質と鉱床の形成”.廣島大學地學研究報告.1968,第17号
  5. 日本自然保護協会.『越後三山・奥只見自然公園学術調査報告』(日本自然保護協会調査報告 第34号).1968
  6. 『新編会津風土記』(第109–120).清水瀬村の項(コマ59).原本は1809年完成
  7. 『新潟県総合年表 昭和20年–昭和45年』.新潟日報社,1973(コマ213)
  8. 第64回国会 衆議院 農林水産委員会 第4号(1970年12月9日)伊勢谷三樹郎 説明員
  9. 第64回国会 参議院 公害対策特別委員会ほか連合審査会 第2号(1970年12月12日)宮澤喜一 通商産業大臣
  10. 新潟県衛生研究所.『新潟県衛生研究所年報』第7号(昭和47年度)
  11. 新潟県.『環境白書 昭和53年度』(表3-6ほか)
  12. 藤島玄.『越後の山旅 下巻』.富士波出版社,1979
  13. 環境省.“越後三山只見国定公園(福島県地域)公園区域及び公園計画の変更に関する概要”(参照:2026年10月)
  14. 第72回国会 衆議院 公害対策並びに環境保全特別委員会 第9号(1974年3月12日)小西康孝 参考人
  15. 若井朝晴.“奥まった山”.佐藤一栄 編『わが越後の山:紀行と随想』.学生書房,1971
  16. 『越後三山只見集成図』.湯之谷村,1998(筆者所蔵の地図で確認)
  17. 『年報わらじ2』.発行者 金子一郎,1979(筆者所蔵本で確認)

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